美容師

美容師(びようし、英: beautician、hairdresser)は、厚生労働大臣の免許を受けてパーマネントウエーブ、結髪、化粧等の方法により、容姿を美しくする者をいう。
なお、染毛(ヘアカラー)は、美容師法第二条第一項に明示する行為に準ずる行為であるので、美容師又は理容師でなければこれを業として行ってはならない。

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歴史

日本においては、髪結床として女性の髪結や男性の丁髷(ちょんまげ)などを結ってきたが、明治4年8月9日に発布されたいわゆる「断髪令」より「近代理容業」として生まれ変わる。1957年主に女性客のために理容師法から美容師法が独立する。現在においても美容師法は『美容とは「パーマネントウェーブ、結髪、化粧等の方法により、容姿を美しくすること」とされている。美容師がコールドパーマネントウェーブ等の行為に伴う美容行為の一環としてカッティングを行うことは美容の範囲に含まれる。また、女性に対するカッティングはコールドパーマネントウェーブ等の行為との関連を問わず、美容行為の範囲に含まれる。』となっており、カットを含め、化粧・マニキュア・エクステンションなど女性のための業となっている。ただ、時代の流れにより実際は美容所でも男性のカットをしている店も多い。厳密に言うと、男性にコールドパーマネントウェーブを行うこと、およびそれに付随して髪のカッティングを行うことは認められるが、男性に対しカッティングのみを行うことはできない、という見解が厚生省から出されている。一方、女性に関しては、コールドパーマネントウェーブに付随せず、カッティングのみを行うことは認められている。

日本初の美容専門学校

大正2年(1913)『東京女子美髪学校』が最初に認可され、結髪技術の教授を目的に「女髪結」の師匠たちによって設立された。 「美髪」はこの当時「美容」という用語が一般的でなかった為、理髪業界がその技術向上を図る目的で設立した大日本美髪会(明治39,1906)から引用したと考えられる。教科に美顔術(理髪師の大場秀吉や芝山兼太郎がルーツで今日のエステの源流)があり、女髪結の近代化の原点は皮膚の生理や病理及び衛生管理など医学的知識の習得にあったと考えられる。 さらに特筆すべきは、東京で大正11年(1922)に肌と髪の手入れ法(北原美容術)や化粧法を教授する専門校として、日本女子美容術学校が北原 十三男によって設立されている。他の府県では、大正4年(1915)大阪美髪女学校(現大阪美容専門学校)や大正13年(1924)神戸美髪九十九学校(現BEAUTY ARTS KOBE 日本高等美容専門学校)などが設立されている。
大正期は都市の一般大衆の生活の欧風化が進展し、女性の社会進出も認められ始めた。また女性ファッションの主流が和装(本格的な洋装化は第2次大戦後)であったとはいえ、日本髪や束髪の衰退傾向は見え始めていた。高木女子美髪学校(大正15、1926東京府認可)の教科に洋髪技術の存在することが、このことを示している。  このように認可された学校に対して、無認可の学校や講習所も多く存在した。「美容講習所」(大正2、現マリールイズ美容専門学校)がその一つで、設立者のマリールイズはウエーブ技術の普及によって、日本髪・束髪(女髪結)から洋髪(美容師)への過渡期における近代美容の礎を築いたと考えられる。また業界にあって美容の近代化に果たした遠藤波津子(理容館、明治38、1905)や山本久栄(美粧倶楽部、明治44、1910)及び山野千枝子(丸ノ内美容院、大正11)らの功績も大きい。 「教えない」ことが本音の徒弟制度下にあった女髪結たちが学校を設立した裏には「賤業からの脱却」という地位向上への熱き思いが存在する。女性が仕事を持つことや女髪結にまつわる様々な偏見を少しでも払拭する為に、東京女子美髪学校の校則にあるように学校は「結髪二関スル知識及 技能ヲ授ケ貞淑有為ノ婦人」の養成を担う役割を持ったのである。  刑務所内でも模範囚の場合美容師の教育を受けることが可能である。 今日美容師は専門職として高い社会的評価を受け雑誌などに紹介される場合「先生」と呼称される場合が多い。

ヘアカラー専門美容師

白髪人口の増大とヘアカラーをファッションして楽しむ世代によってヘアカラーが普及し、ヘアカラー市場規模は1985年頃には、400億円前後であったが1990年代に入り飛躍的な成長をとげ、2000年には1000億円超える大きな規模になった。
1994年ゼネラリストであった美容師からヘアカラーのスペシャリスト、ヘアカラーリストが誕生した。それは、美容師への高度なヘアカラー技能・知識、センス、ノウハウの充実が生み出した、新たな美容師の創出である。
その歴史は浅く、NYで働いていた日本人によって1994年大阪に分業化の専門サロンが誕生し、名門ウォーレン・トリコミ、フレデリック・フェッカイ、ルイス・リカーリで活躍していたヘアカラーリストによって日本のへアカラーリスト文化がはじまったと言われている。
又、NPO法人日本ヘアカラー協会に所属するヘアカラーリストによって、全国でサロンカラーの浸透と啓蒙活動が行われている。

資格

美容師又は理容師になるには、それぞれの免許の取得が必要であり、そのためには、大学に入学できる者(高卒者)が厚生労働大臣が指定するそれぞれの養成施設に2年以上通い、それぞれの国家試験に合格する必要がある。試験は財団法人理容師美容師試験研修センターが行い、各都道府県の受験会場や指定の学校で年2回実施されている。

理容師と美容師

おおまかに言えば、男性を対象とするのが理容師、女性を対象とするのが美容師である。厳密には法律によって、
・理容:頭髪の刈込、顔そり等の方法により容姿を整えること(理容師法第1条の2第2項)
・美容:パーマネントウェーブ、結髪、化粧等の方法により容姿を美しくすること(美容師法第2条第2項)
と定義されている。
理容業・美容業は一つの店舗を共用して同時に営業することはできない。 つまり、整髪の方法・場所を理美容毎に限定することで住みわけを図っていた(これは保育園と幼稚園との関係に似ていなくもない)。
現実には、どちらの業種とも顧客ニーズの多様化への対応と新規顧客を獲得するために相手の領域に進出しようしている(業権争い)。 理容業でもパーマを行うところがほとんどであり、 美容業側も数年前から、1948年の旧厚生省通達
「化粧に附随した軽い程度の「顔そり」は化粧の一部として美容師がこれを行っても差し支えない」
という通達により規制が緩和され、顔そりを行うようになりつつある。
双方ともに消費者のニーズにより、歴史的経緯を超越し、理・美容統一資格を策定すべきとの意見もある。方法としては、過渡期においては旧理・美容資格者に新資格を与える、資格の相互認定、一定の講習により相互の資格を無条件に認可する、などが想定されている。 資格統一以前に現場レベルで融合が進行しつつあり、ユニセックスサロンという複合型サロンが日本でも増えている。一方で両資格の専門性を高めるための動きも見られる。

規制緩和

第二次世界大戦後、経済復興の過程において、理美容業は比較的安定した収入が得られる職種であったため就業者が増加した。そのため業界は1951年ごろから過当競争に陥り、中小事業者は経営が困難となった。業界では保護を求めて国会に陳情を続け、結果1956年に議員立法で環境衛生関係営業の運営の適正化に関する法律(環衛法。2000年の法改正により、「生活衛生関係営業の運営の適正化及び振興に関する法律(生衛法)に名称変更)が成立した。 この法によれば、理美容組合は組合員の健全な営業が阻害される恐れがある場合、「適正化規程」を定め、組合員に対し営業日・営業時間・技術料金などの制限を課すことができた。事実上零細業者の保護を目的としたカルテルであるが、独占禁止法の適用は除外された。1957年には理容業から美容業を分離し、職域の性別による住み分けを図った。
以降業界は安定し、バブル崩壊後の物価下落局面に際しても散髪価格はあまり低下しなかった。
1990年代に入り顧客ニーズに変化が現れ始めた。ユニセックスなヘアサロンが増加して、理容・美容間の垣根が低くなっていった。大手資本もこの分野に参入するようになった。適正化規程は1998年3月末をもってすべて廃止された。
一方で、議員立法による理容師法・美容師法の改正により、1998年4月から、理容師・美容師免許が都道府県知事から厚生労働大臣による発行とされるとともに、受験資格の前提となる養成施設の入学資格が原則として高卒とされるなど、資格取得の要件が厳しくなった。
1999年、東京都内のヘアサロン選り抜きの美容師が腕を競い合うテレビ番組『シザーズリーグ』が人気を集め、これにより「カリスマ美容師」ブームが起きた。これを見て美容師を目指す若者が増え、結果として一部では過当競争や労働条件の悪化を招いた。さらにその影響が全体に波及して、新規の就業志望者数の大幅な減少を引き起こしている。
現在、理美容業は従来にない競争の時代を迎え、業態も多様化している。顔そりからエステを行うサロンやヘッドスパ専門サロン、会員制のリラクゼーションサロンなど多様なサロンが出現している。
今後はさらなる規制緩和が行われるとする意見もあった。QBハウスや日本フランチャイズチェーン協会が行った構造改革推進特区、規制改革の提案は、いずれも認められておらず、2005年5月の構造改革推進特区有識者会議においても、最終的には重点検討項目からは落ちている。

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